雨の涯(はて)


犯罪者をもってしまった家族の葛藤を父親の立場、本人の立場からみつめた小説です。
日常生活でなぜとあなたに問いかけ、共に考えてくれることを求めた主題は重たいが、
その先にはあなたはなにかを見出すに違いない。
 
 
菊 池  明
 
・≪0≫・ ・≪1≫・ ・≪2≫・ ・≪3≫・ ・≪4≫・ ・≪5≫・ ・≪6≫・ ・≪7≫・
 

 

  『父さんへ、急な行動で家を出てしまい申しわけありませんでした。自宅へ届けた方がよいかなと思いましたが、きっと品川さんも案じているだろうと思い、品川さんのポストへ投函いたしました。品川さんに書いた手紙のなかで、この封筒を自宅へ渡して欲しいとお願いいたしました。きっと時をおかず、父さんのところへこの手紙がいくと思っています。父さんへと書きましたが、父さんの中には母さんという意味もあります。
  私は、印刷会社をやめたあと、心配をかけまいと時間を気にして朝の出かける時間、帰る時間を以前と同じよう必死にわからないようにしました。ハローワークの前にはいくのですが、何かその中へ入ろうとするのですが、足が気持ちとは逆の行動をしてしまい、中へ入れないのです。高校も卒業していない自分には場違いの所ではないかと思ってしまうのです。父さんには理解しにくいかも知れませんが、自分で自分を規制してしまうのです。そんな自分が嫌でたまりませんでした。そのうちスポーツ新聞を買い求め、そこの求人欄をみて十社ほど公衆電話から応募の意志を伝えたのですが、今時、携帯電話からではないので不審がられました。また学歴を聞かれるのですが、中卒というと、うちはできれば高校卒業以上が欲しいからと言われ電話は向こうからきられることが大半でした。仕事につくという行為は大変なのだなと、はじめて自分で職探しをしてわかりました。あらためて品川さんのこれまでの私に対してして下さった数々の事には感謝しました。
  私が家に戻らなかったあの日、勇気を出して足をハローワークの相談窓口へ向かいました。もう時間がないという焦りが、私の背中を強く押していたからだと思います。そこで学歴不問という会社を紹介してもらいました。私のような者でも面接をしてくれる会社があるという安堵感が心の中に拡がり、よかったと思いました。
  ハローワークから近い会社でした。従業員数は六名となっていました。面接で私は、そこの社長から履歴書に嘘はないねと念をおされました。実は賞罰のところ私は無と書いておきました。その事実を知る前でしたら、私はありません。とはっきりと言えたとおもいますが、社長が実は君の前にきた若者が、履歴書の賞罰の欄に有りと書いてあったので驚き、これはと訊きただしたら、その若者は喧嘩で相手に怪我を負わせて刑務所にいました、と言ったそうです。社長はその青年に、内はあわないから他をあたってくれ、と話したらしいです。私はその青年が負の部分を隠さずに、これから一所懸命働きます。という気持ちがいたいほどわかります。だからこそ正直に書いたのだと思います。就職したあと、何かの拍子で過去の罪が暴かれたら、その職場に残ることは出来ません。きちんと自分を表に出しておくなどの気持ちは、勇気のある人だと思いましたし、また彼は必死に自分のこれからを生きて行こうと思っていた人だと思います。私は面接の途中で席をたちました。その青年の気持ちを考えたら、そこに勤めることはできませんでした。急に私が立ち上がって、手渡した履歴書をうばい取るようにしたものですから、社長は驚愕の表情でした。 「私は失礼します」と、緊張と苛立ちのあわさった乾いた声で言ってその場から離れました。
  その後、電車に乗り有楽町へ向かっていました。足が自然と日比谷公園へ向かいました。幼い時より、家族みんなで出かけた思いでの場所のひとつでした。新聞配達をしていた時期も時折、時間をつくっては一人で来ていました。だから今回も自分の気持ちを落ち着かそうと思って来たのです。でも、これまでとは違い自分の置かれている状況が、八方塞がりのような気がしました。一人、木の下で声をあげて哭いてしまいました。周りの人々の視線は、全く気になりませんでした。しばらくした時、そんな私の肩を叩く人がいました。父さんたちは全く知らない人です。が、以前私に手紙をくれた人です。その人が異様な私の行動に戸惑いも隠さず、優しくみつめてくれました。
  彼は私を近くにある高級レストランに連れていきました。ジャンパーにGパンという服装で入るには、場違いな装飾のしてある洒落た部屋でした。支配人のような人が彼に対して、かなり慇懃な姿勢で応対するのには驚きました。彼がこの店でも顧客として重き位置を占めている人物であることがわかりました。
  私は彼にこの間のいきさつと、今日の面接のことを話しました。私がすべてを語ったと思ったのでしょう。つらかったなと一言をいい、覚悟があるのなら自分の所へ来ないかと誘われました。彼は、父さんたちとは全く違う社会に身を置く人です。私もその申し入れに対して戸惑いました。返事を躊躇している私に、彼はこれから君にひとつ仕事を与える、それをしばらくしてみないかと言いました。
  東京の繁華街にある高級サウナの店でのフロント係でということでした。私は彼の穏やかな表情の中に、彼についていってもよいという気持ちになりました。職場には家から通おうかとも思いましたが、父さんたちにうまく説明ができないだろうし、自分の気持ちが揺れるとも思い、私の方から、親元を離れ一人暮らしをしながら、その仕事をさせて貰っては駄目ですか、と尋ねました。彼は、君の気持ちを優先すると言い、その場で不動産屋に電話をいれ、私の住む場所を決めてくれました。その日から、支配人見習いとして働きだしました。
  この一カ月あまり過ぎましたが、父さんが利用できるようなサウナではありません。会員制でその会費もかなり高いです。利用者の方のプライバシーの厳守があるのに、自分をいきなりそこで勤務させてくれたその人に感謝しています。この仕事は私にはあっているような気がしています。名刺をつくって、こんな所で働いています。とはできないですが、私は私なりに、この社会で生き抜いていきたいと思うようになりました。時折、手紙を出します。お父さん達も充分健康には気をつけて下さい。そして伸子にも元気でね、と言って下さい。
  お父さん、お母さん、伸子は私にとって大事な人達です。ありがとう』
鏑木は、品川が目の前にいることを忘れ、頬から涙が流れてくるのを止めることは出来なかった。読み終わった手紙を品川に差し出した。品川が私も読んでいいのですかという表情をしたので、
「お読みいただけますか」
  品川は、じっとその文面をみつめ読み始めた。読みおえると彼は、肩の力をぬくように手紙を鏑木に返し、ソファに改めて座り直した。明らかに落胆の気持ちが表れているように思え、鏑木の予想していた反応と違っているその表情を窺った。
「健一君はしばらくは戻らないかも知れません。このような方向にいかせてしまったこと、鏑木さんご一家に対して申しわけありません。私の力不足でした。健一君が籍をおいていた印刷会社の社長とは、長い間の取引関係の会社でした。彼から会社の健一君に対する状況を聞いた時、彼がどういう選択をするのか見ていました。もし辞めたとしても、必ず私のところへ相談にきてくれると思いました。でも彼は来てくれませんでした。私の判断が甘かったとしか言えません」
  品川の表情は苦渋に満ちていた。普段の冷静にして穏やかに物事を見つめる面影はなかった。さめていたコーヒーを一気に飲みほした。コーヒーを味わって飲むという仕草ではなかった。緊張した気持ちを一時ほぐすための手段として目の前にあったコーヒーを飲んだという印象であった。
  品川は両手でカップを包み込むような動作でそっとおきながら、鏑木の顔を見つめた。
「鏑木さん、恥じを言うようですが、聞いて下さい。私には下に一人弟がいました。その弟は今生きていれば六十歳になります。既に死んでしまったようにいいましたが、四十年ほど前に、家から出て行き、時折、健一君のような手紙が届くようなことがありました。弟は高校生の時に、無二の友人が不慮の事故死をしてしまいました。交通事故でした。弟が無免許で運転するオートバイの後ろにその友人が乗っていました。若気の過ちなのでしょうか、スピードを制限速度より出して走っていたようです。当然、白バイに追われました。弟は警察官の停止命令を無視しました。その結果、運転操作を誤って転倒し、弟は大けがをしましたが助かり、友人は意識不明のまま病院に運ばれましたが、二日後に死亡しました。その事故以来、弟は家に閉じこもったままの生活を一年近くしました。その当時、達者であった両親も、弟を立ち直らそうとして努力しましたが、そんなに早く状況が変わることはありません。一年近くの歳月が経過し、弟がようやくその衝撃から立ち直れる兆しが見えてきて、家族の者もやすらぎの気持ちが表情に見え始めました。彼は、新聞配達を始めました。朝刊と夕刊でした。大学検定試験で資格をとり、経済学部のある大学を目標にしていました。弟のめざす大学は国立大学でレベルが相当高いところですが、私は、弟が勉強を真剣にするのならば、必ず合格することは間違いないと思いました。そのように将来の目標をもち、夢に向かって弟は進んでいました。だが、弟にしても、私たち家族にしても運命を変える出来事が起こりました。突然にです」
  品川は、鏑木の様子を窺うように視線を向けた。真剣な表情の鏑木の目を見つめ、一呼吸おいて話を続けた。
「弟の配達地域に、暴力団組長の家がありました。かなりの組員をかかえ、警視庁からも指定暴力団の第二次グループとして、マークされている暴力団です。組長は六十歳ぐらいだったでしょうか。たまたまその日、犬の散歩を一人でしていたらしく、対抗する暴力団員によって襲われました。三人の男たちが組長を張っていたようです。油断をしたのでしょう。いつもなら周りに数人の組員がいたのですが、ガードする組員たちより先に散歩に出たらしいです。その事務所から二百メートルほどの児童公園に一人でいるところを狙われました。一人が組長を背後から刺しました。犬が吠え立てながらその男に向かっていったらしく、別の二人の男にかわいそうに主人を守ろうとしていた犬は殺されました。直後その場に配達中の弟が出会わしたのです。弟はその刺された男がヤクザとは知りませんので、無我夢中で多勢に無勢でしたが、救けに入りました。幼いときより弟は後先をみないで行動してしまうことがありました。弟は一人の男からナイフを奪いとろうともみ合っているうちに、運が悪くその男を刺殺してしまいました。そのうちに組事務所から数人の組員が駆けつけてきました。その男たちの手で組長は病院へ運ばれました。警察が到着して、その日の新聞の社会面に大きく報道されました。弟も腹部などに打撲や裂傷があり入院しました。結局は正当防衛という判決がありましたが、そのことが弟の運命を大きく変えて行きました。前に健一君が新聞配達を続けたいといったことがありました。私は健一君を担当してから初めて不服な態度をとったことがあります、この弟の事件を思い出したからです。弟と健一君はその性格にとても近いものがあり心配だったのです。その後、弟はその組からの誘いに応じて家から出ていきました。私は何度も止めましたが、敵対する組織の一員をやってしまった以上、必ず報復をうけるだろうと言っていましたが、お前は事情を何も知らないでしたことだから大丈夫だと何度も言ったのですが、弟も悶々と考えていたようですが、結局はその組織の一員になりました。四十年も前のことです。その後、弟から時折手紙が届きますが、姿を見たことはありせん。何か、戸腰興業という会社を起こし、合法的なビジネスもしているという風の便りを聞きました。調べましたが、全く闇に包まれていてその全貌は不明ですが、株式市場にも参入し、かなりの重きのある様子はわかりました。ただ会社の登記には、弟は載っていませんでした。弟は完全に裏での指揮をしているようです。ただ、サウナやナイトクラブなどの風俗店を都内に十カ所ほど経営をしていますが、その代表取締役として弟の名前が出ていることがわかりました。しかし住所は登記後に変えていて、弟の居場所はわかりませんでした。いつの間にかに、その刺された組長との養子縁組をしていたようでした。品川ではなく戸腰忠明となっていました。既に物故者になりました両親は、息子の急激な変化に苦しみましたが、弟の人生は誰のものでもない、彼のものだということを自分たちに言い聞かせるようにして、自らを納得させていたようです。そこまでいく間に両親も弟を捜し、警察にも出向き行方不明者として捜してもらうようにしていたようです。二人で占い師を訪れたり、さまざまなセミナーにも出かけていたようです。父も母も弟の失踪が自分たちの責任と考えていたようでした。二人とも焦燥感で暗い表情をしていました。世間から後ろ指をさされる社会に身をおとした自分たちの子どもに対して、世間に申しわけないとよく言っていました。弟の失踪いらい両親は本当の寛いだ気持ちは持てなかったように思います。弟を責めるより、自分たちの非力さを責めていました。父が先に亡くなり、残された母は惚けが始まったのでしょうか、帰宅した私の顔を見つめて、 「忠明か、お帰り」ということが始まりました。最初は、俺だよと言って、母を相手にはしなかったんですが、そのうちに、母親の表情を見つめていたら、可哀相になってしまい、 「ああ、ただいま」と返事をした時がありました。年老いて動作も鈍くなっていた母が弟の忠明だと私を思い、いきなり平手で私の頬をこんな力があったのかと思うほど強く叩きました。『仏壇にいき、お父さんに謝れ』 と言いながら、私に抱きつき大声で泣き出しました。私は、母のその興奮がさめるまでそのまま母の腕のなかにいました。私は、こんなに心配をかけている弟を憎みましたが、またこんなにも愛されている弟に嫉妬心をいだきました。 
  弟は父や母のそれぞれの葬儀の時は、全くの偽名で花輪をおくってきました。墓前にも時々弟は出かけているようです。両親が生存中はわが家のことをよくみていたようでした。私も、当初怒りで弟を葬りたくなるような気持ちでしたが、姿のみえない彼が、亡き両親にしてくれた行為をみるたびに赦してやろうという気持ちになってきています。大分前のことですが、墓前に若い母親と赤ん坊の成長を写した写真が数枚裏をテープで固定し貼ってあるのをみつけました。その写真を手始めに最近では、その母親と長男とそのお嫁さんらしき写真になっていました。節々の家族写真でした。亡き両親にそして私に教えているのだと思いました。どの写真にも弟の姿が写っているものはありませんでした。姿を隠す弟をさがすのはやめました。彼は家族を支えそれなりに生きているのだと思うようになりました。人は畢竟、自分で自分の生き方を決めていくのだと思うようになりました」
  品川はそう語り終えると、遠くをみつめる表情になった。そしてはにかんだような笑みで鏑木をみつめた。鏑木は、まさか品川からこのような話を聞くとは考えなかった。
  保護司としての面接があるのでと席をたった。その後ろ姿をみて、彼も家族のことで私とはまた違う意味で苦悶してきたのだと思った。健一が品川さんという保護司はとてもいい人だといったことがあった。「そうだなあ」と健一の手紙に向かい語りかけた。
  店を出るとき品川は鏑木に向かい腰を折って深々とお辞儀をした、思わず鏑木も席から立ち上がり深く頭を下げた。ゆっくりとした歩みで、喫茶店のドアを押しながら出ていく品川の後ろ姿を見守った。
  およそ一年後、品川から鏑木に電話がはいった。健一からは何の連絡もそれまでになかった。
「私に手紙が健一君からありました。いまある興業会社で働いているということでした。名前はいえないが、自分なりに努力をしています、と彼は書いていました。また、民間の私書箱を設置したとあり、私から家族に伝えておいて欲しいとのことでした。電話で間違えたらいけないので、手紙でその私書箱の所在地を書いて、さきほどお送りいたしました。こんなことを言ってはと思ったのですが、親には絶対に教えないでという前置きで、次の六月七日に、大宝寺という牛込にある寺で、元某暴力団組織の幹部であった人の葬儀が行われるようです。健一君は強調していましたが、その亡くなった親分という人は、何年か前に足を洗い、その亡くなった時は堅気だったそうで、その葬儀の用人はすべて堅気の人間たちが仕切るようです。が弔問客には、その筋の人たちが訪れるそうで、その誘導の一人として健一君が会社からの指令で、その役割をするそうです。先生を信頼して言うので親には本当に教えないで下さいと念をおされました。私としても迷いましたが、隠すことはできませんでした。ただ、健一君が生きている、その事がまず大事だと思います。生きていれば辛いことや悲しいことにも出会うでしょう。でも生きていれば、幸せをつかむことができるはずです。どうかそのことをご理解して、その場にお出かけになるかは鏑木さんご自身でお決め下さい」
  と最終的判断を鏑木に委ねる形で品川は電話を切った。

  鏑木は一人日比谷公園にいた。目の前には噴水が高く澄んだ青空に向けて、水を跳ねあげていた。花壇には幾種類かのバラの花々が赤、白、クリームなど、色鮮やかに咲き誇っていた。初夏の風が吹きぬける時、その雫が風の方向によっては、ベンチにすわる鏑木の所にもおちてきた。汗ばむ体に対して、その風のいたずらも気にならなかった。かえって冷たい雫が気持ちよかった。今一度、品川から教えてもらった私書箱に投函する健一宛の手紙に目を通した。
『健一へ、品川さんから教えてもらい便りをだします。連絡の途絶えたこの一年間、心配をしながらもなにか安心しているような気持ちでしたが、やはり姿が見えるようになってくることはどんなにか私たちにとって気持ちの安定につながるものだと思いました。伸子は今スペインに留学中です。スペイン語を覚えてできれば現地でガイドの生活をしたいといっています。あの子は、心配しているけれど、お前のことを信じています。兄ちゃんは悪(わる)ではないってよく言っていました。成田からスペインに発つとき、兄ちゃんの居場所がわかったら教えてね、私、スペイン語で手紙を書いてだすから、私もこんなに勉強したんだよって見せつけてやるの、お兄ちゃんどんな顔して読むかしら、想像すると楽しいんだもの。と言いながらも、涙を浮かべていました。お前あてに伸子から本当にスペイン語で手紙がいくかもしれない。  期待をしていて下さい。
  そう母さんは最近、無心で本を読んでいる時が多くなりました。あまり外へでかけないものだから、青瓢箪のような顔色でよくないと思い、近々このマンションを手放して、郊外に庭つきの小さな家を購入しようと思っています。海が近くて二人で浜辺を散策できるそんな環境がいいと思っています。母さんはお前がもし帰ってきたら困るから反対だといっていますが、母さんの健康を考えたら、この際住まいを変えて新しい気持ちで生活をした方がよいと思うので環境をかえようと思います。お前にようやく連絡ができるので、父さんは決断したのです。引っ越し先がわかり次第また手紙で教えます。
  お前が今どのような暮らしをしているのか、どのような人たちと暮らしているのかわからないけれど、父さんは腹を括っています。家族って簡単には壊れないものだとつくづく思います。正直に言えば、今までどんなにお前のことで苦しみ悩んだかしれません。やせ我慢ではないけれど、そのおかげで世の中を見る目が大分変わりました。父さんも少しは社会の矛盾に対して、ある意味では寛容になり、また別の部分では厳しい見方をもつようになりました。最も学んだことは、自分をはっきり見つめるということの大切さです。弱い自分をあえて強そうに見せなくてもいい、ありのままでいいと思いました。また人は生きていくにあたり、他から学ぶという姿勢が基本的に重要だと考えています。健一にも、伸子にも、母さん、父さんにも、たった一度きりの人生、転んでも転んでも、立ち上がりながら生きていきたいと思います。健一の連絡ができる場所を知り、父さんは何か大きく胸いっぱいに息を吸うことができました。いつの日か、互いに元気な顔で会えることができると信じています。健康にはくれぐれも注意しなさい。私たちの大切な健一へ』

  一陣の風が吹き、噴水の冷たい雫が頬に気持ちよくあたってきた。火照る体や心を落ち着かせてくれた。 
  鏑木の座っているベンチから左に視線をずらしていくとその木々越しに、松本楼の建物がみえた。家族とよくきたなあと思った。頬に涙のしずくが流れ、視界がぼやけてきた。成人した子どもたち、健一と伸子、そして恵美子がおいしそうに食事をとっている姿がうっすらとみえた。が、一瞬にして幼き健一と伸子そしてまだ若い母親の恵美子に変わった。錯覚なのだと鏑木は思った。自分の心の思いが、今のような像になったのだと思った。これからも自分は、いろいろな像に出くわすのだと思った。このように一緒に食事を摂る家族に再び戻れる日々はこないと思ったが、できればあると信じているもう一人の自分がいた。だが、現実は厳しいに違いない。反社会的な行為に健一が走る時があったら、自分はどう行動するであろうかと思案した。
  でも、一度しかない自分の人生、歩みは遅くなるかもしれないが、誰かの歩んだ道ではない、さまざまな困難を抱えながら白い道を歩んで行くしかないと思った。鏑木は錯覚の見えたそのレストランの窓辺に向かい、初夏の日差しを背にうけながら歩みを進めた。
 
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