雨の涯(はて)


犯罪者をもってしまった家族の葛藤を父親の立場、本人の立場からみつめた小説です。
日常生活でなぜとあなたに問いかけ、共に考えてくれることを求めた主題は重たいが、
その先にはあなたはなにかを見出すに違いない。
 
 
菊 池  明
 
・≪0≫・ ・≪1≫・ ・≪2≫・ ・≪3≫・ ・≪4≫・ ・≪5≫・ ・≪6≫・ ・≪7≫・
 

 

  あの夏の屋上ビアガーデンからはや二カ月がたち、町行く人々の姿から夏の装いはきえ、長そでの上着を着こなした人々が目立ってきた。容赦なかった陽光もそのやさしさを取り戻し、人々をなごませるようになっていた。
  相変わらず職場での状況は健一にたいして腰をひいた様子であった。面とむかって誰かがなにをいうでもなかった。ただ皆よそよそしい態度であった。その日の昼休み健一は何か自分だけ浮いてしまっている食堂へは足を向けなかった。社外の飲食店で昼食をとろうと思った。営業部が主に使用している駐車場が正面入口の横にあった。営業部は中の仕事と違い時間が不規則であり、食堂でも営業部員とめったにしか顔を合わすことはなく、まして健一はまだ経験不足なので、工務部で営業部員と打合せをすることもなかった。だからほとんどの営業部員をしらなかった。一台の車が丁度帰ってきたらしく、その停車した車のドアがあく時、そのよこを通りすぎようとした健一と接触しそうになった。 「危なかった」といいながら営業の部員が一人降りてきた。男が健一と向き合う形になった。明らかにその男は狼狽した。後ろ手にドアをしめると、 「俺じゃない」とくちばしり走るように去っていった。そのあわて方は尋常ではなかった。健一にはその男の言った意味がわからなかった。ただその男のまなざしは、どこかでみたようなという思いがあった。注文したランチができあがる間、カウンターで健一はさっきの営業部員とのやりとりを思い出していた。健一の体に電気がさっと流れるような気がした。思い出した。あの男は中学時代同じクラスにいた斉藤だった。ほとんど口をきいたことはなかったが、というより健一を怖がってよってこなかったというのが正しいのだろう。この間のあの夏のビアガーデンを境に変化した健一に対するひいていくような同僚たちの姿。健一は理解した。斉藤の口から自分の過去が漏れたことを。ランチをどう食べたか記憶にはなかった。ただ、理由がわかった以上、そのことに対して立ち向かっていくことはできないと健一は思った。斉藤を批判してもなにも事態は変わらない。この期におよんで健一は結論を出すしかないと思った。せっかくここで技術を覚えてと思っていた自分が大きく転倒したような気がした。翌日、健一は大場に退職する旨をつたえた。大場はひきとめはしなかったが、久しぶりに健一の目をみて、 「がんばれよ」と言った。
  健一が退職してひと月ほど経って、社長室に大場と斉藤がいた。二人とも神妙な思いであった。二人には、このように呼びつけられる理由は健一の退職であると思っていた。向かいあった社長室の応接ソファの正面には社長の木村が、普段とは変わらぬ表情で座っていることに、二人とも内心ほっとした気持ちであった。総務の女子社員が、お茶をテーブルにおいていった。その女子事務員が社長室を後にしていくのを確認するかのように、木村は大場に、
「いつも急ぎの仕事をこなしてくれてありがとう。営業から助かりますという、話を聞いています」
  また斉藤に向かい、
「営業の仕事は、時間と対人問題で辛いとおもうけれど、頑張りなさい」と二人に向かって軽く頭を下げた。木村のその様子をみて、二人ともあわてて深く体を折り、頭を下げた。
「ところで、二人に少し話しておきたいことがあります。先日やめた鏑木のことです。彼はある顧客から頼まれて、わが社に入社させました。正直いって、見習い期間中に目にあまる遅刻や無断欠席があるようだったら、正社員にはしないつもりでした。依頼された顧客もそのような時は容赦なしでといわれていました。けれど彼は、大場さんの指導のもとで精一杯仕事をしていたように思います。私も、大場さんにかれの過去を伝えなかったのは、社内で噂されていたように、彼は重い犯罪をしていたので、伏せました。私が面接したとき彼の表情は真剣でした。顧客の立場も念頭にありましたが、私は彼のその後に賭けてみようと思いました。大場さんからの報告書でも、彼の仕事での評価は高かったですね。私はよかった、かれの過去さえ暴かれることがなければ、知っているのは会社では私一人だけ、だから彼はこの会社で力を発揮して、あなたたちのように会社を盛りたててくれると確信をもっていました。けれど、斉藤君と彼が、過去に同じ中学校だったとは知りませんでした。私は、斉藤君をせめるのではないけれど、彼がやめたあと間をおかずにある手紙が私のところに届きました。その手紙の中では、保護司の名前、鏑木君の家の状況・家族構成など、また、この会社の様子などかなりよく知っている人物からのものと判断されました。肉筆ではないのでそれを全面的に信用していいものかどうか予断はできませんが、私はこの手紙の内容が真実だと思います。またこの内容を保護司および鏑木の家族には決して口外しないようにしていただきたい、彼を追い詰めてしまうからと記されていました。私としては何も物証がない事柄を関係者にいうわけにはいきません。その手紙は書いています、彼は噂のあった事件とは無関係だったそうです。一応表面的には彼が主犯で法的、社会的にも制裁をうけています。真犯人たちがわかった時、かれはそれを告訴しなかったようです。彼は、一日も早くその忌まわしい過去を清算したかったようです。社内で噂になり孤独感にさいなまれた時、彼は誰一人せめることなく去っていきました。感情をむきだして誰から秘密がもれたかを追及することもしませんでした。あの若さでそのような感情を抑えた意志は立派だと思いました。だからこそ、彼は自分で自分の生き方を選択していくでしょう。私たち他者もふくめ、家族も彼にこうしろ、ああしろということはできません。ただ見守るしかないのだと思います。人間はさまざまな体験を通して学んでいくものです。斉藤君も今回の件をあなた自身で学んで下さい。大場さんもです。そして私もです。会社に噂が流れていたのを私は知りませんでした。社長として私は失格かもしれません。過去にこだわっていた自分が強く居たからです。彼の過去を私も理解しようとしましたが、できませんでした。彼を紹介した顧客に会社の様子を話して了解してもらいました。内心、私はほっとした気持ちでした。いつかなにかあるのではないかと、彼をみていたせいだと思います。その人の歩いてきたことをみて、私は判断していたようです。その後、この手紙が届き私は自分の卑しさを知りました。今が一番大切で、それと同じように将来が大切なのではないでしょうか。どんな些細なことであっても、過去の苦しみから、目的や夢にむかって真剣に歩みをすすめる、そのような生き方をする人間を認める、それを見守ることができなかった。私も大きく後悔し学ばさせてもらいました」
  大場にも斉藤にも木村の話は重たいものであった。自分たちの軽い口からでた話で一人の若者そしてその家族を取り返しのつかない苦しみにおいやってしまった。本人やその家族たちの気持ちを忖度しない安易な興味本位からでた言葉の残酷さを知った。社長の木村は自分たちを批判しなかった。むしろ、自分自身をせめる面をみせていた。それは二人にとっても他人の不幸に対して、優越な感情から物事をみていた意識の怖さを知ったように思う。社長の冷静に語る態度により、思慮分別のなかった自分たちの行為を静かに見つめ、俎上にあがった人物の心の奥底を考えることの大切さを漠然としてではあったが、知ることができたように思った。
  当初、斉藤から、鏑木の過去をきいた時、まさかとおもったが、大場はうなずけるような気がした。あの若さのわりには何か諦念しているような素振りがあり、過去になにか大きな傷があり、自らを無理に抑制するような行動をせざるをえなかったのではないかと大場は思った。同じ班長をしている者に 「どうも今度見習いで入った鏑木は、殺人犯らしいよ、社長も知らないらしいよ、なにかあったらどうしよう」と話したのが社内に広がっていった。営業の斉藤からの話を軽信した自分の愚かさが取り返しのできない結果を招いてしまったと思った。斉藤の話をきいた時、自分はその内容を確かめるために、まず社長に話すべきであったと後悔した。大場は 「鏑木にあって土下座をして謝りたい」と社長室でいった。木村は、 「君のその気持ちだけでいい、鏑木君は二度と戻ってはこないだろう、彼が今度こそ、自分の居場所を見つけられることを願おう」と大場に応えるように話しかけたが、その話し方は社長の木村自らにもいいきかせていたようであった。
「平年よりも早く、私の故郷、遠く北海道の天塩山地から初雪のたよりが届いてきた」と二人を労らうかのように話題を変えた。
 
  健一は退職した後も、毎朝いつもと変わらぬ様子で家を出た。夜も勤務していた頃と同じ時間帯に帰ってきていた。恵美子は、健一が無口さをましてきていたが、その日々の行動に変化はなかったので、自分が心配していたことは徒労だったと、安堵する気持ちであった。
  帰宅した夫に健一が仕事をやめないでがんばっているようだと、遅い食事をとる夫のそばで賄いをしながら言った。それはよかったという短い夫の応対であった。夫はすぐに新聞に目をおとした。その表情は、息子はもう大丈夫だという思いからか穏やかさがみられた。
  鏑木は小松の母親が坂上の母親にわざわざとあの事件のことを話しにきたこと、そして若い男たちが遺影にむかって詫びていたこと、そしてかなり高額な香典の意味などを考え、また、いつの日か自分たちの訪問を拒絶した母親本人からの息子が主犯ではないのではないかという問いかけの言葉などの変化が、それまで鏑木の心をおおっていた靄のようなすっきりとしない視界が、風が吹きうっすらとはがれていくような明るさを感じていたことは、間違いないことであった。
  健一が職場を去ってから一月ほどの日々がながれたが、健一は品川のところへは行かなかった。社長の木村の方から連絡はしないはずだと思っていた。品川の方でもそのことを知ったならば、直接自宅へは訪ねてこないはずだ。家族にあたえる影響を考えて安易な行為はしないだろう、木村も品川もと、健一は踏んでいた。だからこそ、早く次の仕事をみつけたかった。ハローワークへいき、求人票を見たとき、かなり多くが高校卒業以上の学歴をもつ人間を求めていた。印刷業種の募集も見てみたが、中学卒というのは一件もなかった。
  業種を広くもとめれば学歴不問という職場もあったが、若い健一の年齢でする仕事ではないと思った。定年を過ぎた人たちが働くための求人であり、若い自分が行ってはいけないような気がした。恐らく自分が面接に行けば採用される確率は高いと思うが、そうすることを自分はしてはいけないのだと、自分以上に必死で仕事を求め、生活の糧を欲している中高年の人々がいるのだと思うと、自分を優先できないと思った。自分自身で自らを規制した。
  一件の会社を紹介された。学歴・年齢不問だが、できる限り若い人ということであった。若干名の募集であった。
  紹介状をもちその足で面接に出向いた。新宿の大久保にあり、このハローワークから近いところにあった。小柄な五十代半ば位の社長であった。眼鏡越しに健一をみる目は物を品定めしているような視線だと思った。
「うちはこぢんまりした会社だから、あまり給料は出せないが半年の見習いが修了すればこのくらいはだせますよ」
  健一を見下ろすように、裏に印刷されていないチラシをメモがわりにしている用紙に鉛筆で金額を走り書きし、それを見せながらいった。
「そうそう、きみは前とかはないよね。前におとなしそうな若者がきたので採用しようとしたら、履歴書に罰有りって書いてあるんだよ、これはなんだと聞いたら、喧嘩で相手を傷つけて傷害罪で刑務所にいたというんだよ、それを聞いたらなにかあったら困ると思い、うちでは採用できないといったんだよ、君は賞罰のところは無となっているね、気持ちを悪くしたら勘弁して欲しいんだが、信じて大丈夫だね」
  健一を見つめながら、様子をうかがった。健一は自分の過去を隠蔽してよいと思っていた。少年の時のことであり、前科ではないからだった。だからあえて賞罰は無としていた。だが、今座っているパイプ椅子に、前に面接に来た若者がいた。彼は正直に自分をさらけだしていた。その人は真剣にやり直そうと決意していたに違いないと思った。このような小さな会社だから調査会社を使って身元調べなどはしないはずであった。だから何も有りと書かないで無でよかったのではないかと思ったが、更生した自分の生き方に嘘をつかなかった人がいて、しかも自分の今、腰かけている椅子にいたと思った時、健一の気持ちは大きく動揺した。健一は立ち上がり、怪訝そうな表情の社長に向かい一礼して、
「結構です、べつの会社をあたってみます」
  履歴書を社長の手元からうばい返すように取った。何が起こったのか、社長をはじめ奥で事務の仕事をしていた初老の男と中年の女の従業員が、健一を茫然と見つめていた。どのような性格の人間かわからないが、馬鹿正直な若者の存在に対して愕然とした。もうすこし狡猾でもいいのではないかと思った。その若者の気持ちを考えた時、いくら少年時代のことではあっても、咄嗟に何もありませんでしたということは出来なかった。過去に過ちのあった人間は、赦されることができず重い荷を負うたまま歩まなければいけないのかと思った。いやそんな社会ではないはずだと思った、が、いきなりこの社会のなかで取り残されていくような絶望感が襲った。
  健一はどこを歩いたのかわからないほど自分を見失っていた。新宿駅の雑踏のなかに紛れ込んだ後、山の手線に乗っていた。
  有楽町でおりた。晴海通りを横切り、しゃれた映画館や宝塚劇場の前を歩き、帝国ホテルを正面にみて右にまがり、その足は自然と日比谷公園へと進んでいた。昼時のせいか、公園の中にある噴水の周りには、近くの職場から、思い思いにやすらぎをもとめて人々が集っていた。ベンチに座り、同僚と語らいながら昼食を食べている女子社員たちの屈託のない笑顔が、健一には疎ましく、そして羨ましかった。
  公園を見下ろす高いビルの群れ、健一にはその中で働くことは永遠にできない、遠い存在の建物であると思った。自分の運命は、劣等感と罪悪感に弄ばれながら流れていくのかと思うと心がゆとりを失っていった。ジャンパーにGパンといういでたちは周りの背広姿の雰囲気から浮いていて場違いであった。時折、そのような姿の健一を横目で見ながら通りすぎる背広を着こなした同世代の若者が歩いていく。健一は公園にいるすべての人たちが、その場にそぐわない自分を見下しているような気がした。いたたまれなく、思わずいきおいよくベンチから立ち上がり、噴水を背にして逃げるように足早に歩いていた。
  急な動作で立ち去る健一をいぶかって数人の会社員や女子社員がかれの後ろ姿をみつめていた。あゆみを進めた木立ちの中に、見覚えのある建物が現れた。松本楼であった。幼い時より家族で訪れ、だいぶ前に家庭裁判所で審判があった時に、両親と立ち寄り食事をしたことがあったレストランであった。そのような日々がはるか昔であったように思った。なぜ、俺の人生はこんな風になってしまったのだ、心のなかから沸き立つあせりを抑えるのが辛かった。ここにくると幼い時、家族と共にきた楽しい思いでにひたれると思ったのかもしれない。この場所がなにか自分に勇気を与え、癒してくれるかもしれないと心の奥底で考えていたのかもしれないと健一は思った。だが、現実は社会から確実に切り離されていく自分を意識させる場所になってしまっていたことを容赦なく思わせた。そばの公孫樹の大木に健一は凭れた、しだいに感情がたかぶり哭く自分を止めることはできなかった。

  鏑木は、最近の息子に変化それも悪い変化があったのではないかと思い始めた。健一は、いつものように朝でかけ、夕方には帰ってくる。先日、妻の恵美子は職場でつかれているだけだと、あの子は職場をやめていないと、自らに安心をあたえるように解釈をしていたが、鏑木は違うと思うようになった。普段から会話が少なかったが、家族と必要以外は口をきかないし、自分と視線をあわさないようになった。幼い時より、健一は自分の世界のなかにいる時は視線をあわさなかった。何かあるにちがいないと思った。健一は正社員になったら職場の連絡先を教えるといっていたがために、家族は健一の職場を知らなかった。保護司の品川からの紹介なので、品川にたずねればという思いで、あえて健一からきくことはしていなかった。明日、品川にきいてみようかとおもったが、却って品川に迷惑をかけ混乱させてしまうかもしれないと思った。どのような形で健一にたずねればいいのか迷った。健一から重い事実がでてきた時、それを受け止めることができるだろうかと思った。誰かに息子の健一と会ってあの子の気持ちをきいてほしいとねがったが、そのような人物は品川以外にはいなかった。ただ品川は鏑木に健一と向かい合えと言うにちがいないと思った。そして 「自分からなぜ息子に問いかけをしないのですか、何をさけているのですか、あなたは父親ではないのですか」と言われるだろうと思った。いままで自分は健一に面と向かって言うことを控えてきた。わが子が殺人という重大な事件をおかしている。そのような子どもに、もし間違って感情的にさせてしまったら、また大変なことが起きてしまうのではないか。その思いと自分よりも体も大きく、力も強い息子と感情的になり言葉でのやりとりではなくもみ合った時、みじめにも打ち負かされる自分であると思った。そのみじめさが、次なる悲劇を起こすのではないかと鏑木自身恐れていた。
  だがそのような考えは自分自身を正当化するための都合のよい言い訳なのでないかと思うもう一人の鏑木がいた。息子の健一が感情的になり、その反抗心を暴力というかたちで表したとしても、親として向かいあい、いいにくいことも言わなければならないのではないかと思った。向き合うということは、そういうことではないのか。ことの真実から目をそむけることではないはずだともう一人の鏑木は思った。
  息子の部屋をあけた。雑然とものがおかれている。日曜日で健一は出かけていた。衣類なども脱ぎっぱなしになっていた。鏑木は健一に二人で食事をしようと書いたメモを敷きぱなしになっている夜具の枕元においた。
  その夜戻ってきた健一は、父親と二人きりになった時、いつごろかと尋ねてきた。次の金曜日の夜にしよう、おって場所と時間は教えると伝えた。「わかった」と鏑木の目をさけるかのように健一はうなずいた。

  その日は木曜日だった。いつもなら健一は自宅に戻り、夕食を済ませ自室に閉じこもるようにしているはずであった。恵美子の胸に不安の色彩が濃くなりつつあった。見ているニュース報道番組も上の空であった。自分が封印していた最悪の事態、それは健一が何かの事由で職場をやめ、荒んだ生活に戻ってしまうのではないかという現実がきたのではないかと思った。夫も伸子もまだ今日に限って帰ってはいなかった。動悸が高まるのが自分でもわかった。おそらく自分の表情は十六歳の健一が逮捕されていった時のように顔面蒼白であり、焦点が定まらない目つきで苦悩を表しているにちがいないと思った。
  十一時をすぎて、夫が帰宅した。少しお酒が入っていてほんのりと赤い顔をしていたが、妻の動揺しているその仕草から夫の表情もまたたくまに蒼白となっていった。健一になにかあったとしか考えられなかった。家の電話がなった。鏑木はうろたえるように受話器をつかみ、緊張ではりつめた乾いた声で、
「鏑木です」
  電話口から、いつもの聞き慣れた伸子の声がし、
「ごめんおそくなり、もうすぐ駅前だからあと三十分程で戻るから」
「わかった」
  返事をかえしたが、妻の恵美子が奪い取るかのように、その受話器を鏑木からひったくった。鏑木はそのような妻の行為に慄然とした思いであった。妻は、涙声で、受話器に向かって
「健一がまだ帰らない」
呻くようにつぶやいた。鏑木からは、その妻の声しかきこえなかった。娘の反応はわからなかった。
  夜の闇がだんだんと白みはじめ、いままで静かであった町に、人々の動きだす音が聞こえてきた。ドアポストに朝刊が配達された。配達員の足音が遠のいていった。鏑木も恵美子も寝られなかった。二人は居間のソファ椅子に向かいあったまま何も話すことなく座っていた。互いに不安感で気力を失っていた。その日結局、健一は帰ってこなかった。
  八時になった。夫は眠らないまま朝食も摂らず会社へいった。また伸子も真っ赤な目をしながらいつものように出かけていった。恵美子だけが誰もいなくなった家に一人残された。健一の部屋をあけた。雑然と物がおかれていた。一枚のメモ用紙が枕もとにおかれていた。夫の字であった。今度の金曜日に二人だけで食事をしようと書いてあった。今度というと今日の金曜日に違いなかった。夫はこのようなやりとりをしていることなどおくびにも出さなかった。健一は夫にどのような返事をしていたのだろうかと考えた。夫がおそらく健一を父親として心配していたことがわかった。何もいわないものだから、夫の息子に対しての感情のうすさを嫌悪したことがあったが、夫は夫なりに苦悩していたことを知った。
  散らかっている部屋をながめているうちに、幼い時より片付けが下手で、よく健一に片付けなさいといって、息子をみつめ続けていた自分を思い出した。泣きべそをかきながら片付けている健一、その仕草をみつめている自分は、顔では怒っていてもその動作の一つ一つが可愛いと思っていた。そのような光景がふっと湧いてくるようであった。この事態の茫洋さに恵美子はうろたえていく自分を感じた。おそらく夫も今頃どのような気持ちで仕事をしているのだろうと思った。寝ずに健一を待っていた時の夫は、焦点のあわない虚ろな表情でゆがんでいた。夫も同じようにこの間悩み苦しんでいたのだと思った。夫が共に健一を思い、苦しみを妻の自分と共有してくれていることに恵美子は救われる思いがした。
  健一がまだ小学校四年生くらいの時だった。家族でレンターカーを借りて、日帰りのドライブに出かけた。夫と自分が交替で運転をした。後部座席には、健一と伸子が座り、天気も晴れ渡り家族全員にとり楽しい一日であった。河口湖に向かう中央高速道路は山間部を通行するために、何カ所かトンネルがある。そのトンネルを走りぬけるたびに子どもたちは競うように息をとめている。短いトンネルもあれば長いトンネルもある。子どもたちは楽しそうであったが、夫はトンネルにさしかかると幾分スピードを加速した。子どもたちのことを心配していたのかもしれない。なぜなら健一は必死な形相で息を止めているようだった。ぷうっと大きく息をはいて息をとめていた時間を伸子と競っていた。後部座席でささいなことに、いろいろな遊びを見出す子どもたちを恵美子は愛しいと思った。今、混乱している恵美子にとり、そんな日があったとは夢のようだった。また健一は家族で牛丼屋へ食事にいったとき、店をでてしばらくあるいていた時に、アルバイト店員が釣銭を多目に差し出したことがわかった。どうしょうと思った時に、健一がぼくが返してくる。といって夫から余分な釣銭を受け取りその店に返しに走っていった。そんなこともあったと恵美子は思った。
  夕方になり、夕食のことを考えねばならないのだが、何をする気持ちにもならなかった。電話がなった。夫からだった。健一から会社に電話があり、昨日は友達の家へ泊まったということであり、今日私の仕事がおえたらどこかで会いたいと言ってきたと連絡してきた。恵美子は健一が夫の職場へ電話をかけてきたことを知り、心のもやもやがうすくはれたようにおもったが、なぜ家に帰るとはいわないのだろうかと疑問に思った。友達って誰だろうと思った。そのことを夫に糺すと、電話口でしばし沈黙があった。それにこたえずにとにかく会うからと電話は一方的にきれた。受話器をもったまま、恵美子は健一が何を考えているのだろうかと、戸惑った。
  健一は四谷駅近くの喫茶店を指定した。店内は椅子の配置がゆったりとしてあり、隣の人をあまり意識しなくて話せる店造りになっていた。約束の時間より少し早目に鏑木はつき、適当な場所を探そうと店内を物色した時に、奥の方で右手を高くあげ、手招きしている健一をみつけた。健一の様子は思いをつめた表情ではなく、何かひとつ課題を乗り越え息をついているようであった。鏑木が腰を降ろすと、
「心配をかけてすみません。どうしても連絡ができなかったもんで」
  と鏑木の目をみつめたまま話した。
「なにかあったのかもしれないが、話はなんだ。今日はこれから一緒に家に帰ることができるんだろう。母さんがとても心配している。伸子も」
「俺はもう印刷会社をやめた、実はやめてから一カ月あまり経つんだ。父さんや母さんに心配をかけてはいけないからと、俺なりにハローワークへ出向き、仕事を探そうとしていたが、ないんだ。本当に」
「どうしてやめてしまったんだ」
  その問いに健一は下を向き黙ったままであった。
「品川さんはこのことを知っているのか、品川さんも心配しているのではないか」
  うつむいていた健一が上体を真っ直ぐにして、鏑木をみつめ
「会社で、俺の中学時代の同級生がいたんだ、彼から俺の過去がすべて会社中に知れ渡った。いままで口をきいてくれたり、一緒に飲みにいこうといってくれた人たちが全部、俺に近づかなくなった。会社には俺の居る場所はなくなったんだ。品川さんは知らないし、俺からも報告にはいかない、これ以上あの人に迷惑をかけたら申しわけないから」
  健一は鏑木から視線をはずし静かに話し始めた。
「俺はまともなことでは生きていけないことがわかった。俺は家を出て一人暮らしていく。どうか俺はたった一度の自分の人生を自分で生きていきたいんだ、ある手蔓があって俺はそこで働くつもりだ、ただ、父さんの意識にあるような仕事ではないけれど、俺はこの仕事のなかで自分をもう一度みつめてみたい。こんなことを母さんにはいえない。父さんからうまく母さんにいっておいて欲しい」
  鏑木にとってその健一から発する言葉はある程度予想はしていたけれど、衝撃的な内容であり、返す接ぎ穂を見出せなかった。健一の前で黙したままであった。
「俺も、もうじき二十四歳になる、今しかないんだ、どうか理解して欲しい。なんとか俺も仕事を探したが、結局はおれの前をこの社会は受け入れてくれないことをいやというほど知ったんだ。この社会は一度烙印をおされた者には容赦ない仕打ちをするんだ。中にはそういう環境下で自分を取り戻す人はいるかもしれないが、多くの俺のような人間は、どんなに立ち直ろうとあがいても救われることはないんだ」
「そんなことはない、努力だ、忍耐だ、それらがお前には一番大切なことなのだ」
「俺みたいに冷たい飯を食ったことのない父さんにはわからないと思う、この辛い気持ちが」 
  これまで鏑木の前では見せなかった挑むような健一の言い方であった。自分とは違う生き方をして、変貌する健一をみたように思った。
「お前は残された家族のことをどう考えているのだ。お前も辛いかもしれないが、母さんや伸子だって、お前とは違う辛さを耐えてきているのだ。お前もこれから一人で生きるというのなら、けじめというものをできる大人にならなければいけないのではないか。お父さんに頼むではなく、母親に自分の口からお前の意志を伝えるべきではないか。それができないのは、お前が現実から逃避しようという気持ちがあるからではないか。今、お前は現実のさまざまな問題に直面し、どうしていいのか迷っているのではないか。私にその迷いを聞かして欲しい、そこからお前の抱えている困難をどうしたらなくせるか、共に考えることにしよう」
「父さんの言う事は俺も理解できるし、ありがたいと思う。ただ、真実を話した時、それを受け止められる人間とできない人間がいるのではないか、俺は本当のことを母さんが知ったら、おそらくどうしていいのかわからなくなり、苦しむのではないだろうか。伸子もうわべは元気だけど、母さんとおなじように駄目になってしまうように思うんだ。そんな母さんの顔を俺はみたくないんだ。なにかあっても、俺はもう立派な社会的には成人だ、もう父さんや母さんには迷惑はかけない。だから俺の一度の人生を俺に背負わせて欲しいんだ」
  健一は鏑木の数歩先を歩いていた。四ツ谷駅の橋のところで立ち止まり、鏑木に向かい右手をあげ一礼すると足早に麹町方面に去っていった。目で追った、途中雑踏の中で健一がこちらを振り向いて手を振ったように思えた。健一の表情は夜の闇にまぎれわからなかった。鏑木は無性に淋しさを覚えたまま視界からきえていく健一をみつめていた。
  鏑木は息子の健一が、自分たちの許から大きく離れていくのを感じた。もう私の庇護できる息子ではなく、私たちの知らない社会にのめりこんでいく男の姿であった。それを阻止できない父親としてのみじめな自分をあらためて知った。
  その夜、恵美子は声をあげてないていた。その動揺ぶりが鏑木には父親ではできない行動だと思った。父性ではできない母性からくるものではないかと思った。伸子も母親のそばで俯いたまま体を震わしていた。
  鏑木は、母と娘が泣き崩れている姿をみていると、いたたまれない哀しい怒りが湧きあがってきた。親として出来うる限りのことをしてきたではないか、いままで健一によってかき回されてきた自分たちの生活をかえりみた。そしてさまざまな出来事を思い浮かべては、その原因をつくった健一が何を考えているのかわからなかった。そして悩み苦しんでいるだろう息子に、結局は何もできない不甲斐ない父親である自分を葬り去りたい衝動も湧いてきた。泣いている母娘のそばに行き、夫として父親として受け止め支えなくてはいけないと思った。それが自分の使命であると考えた。心ではそうありたいと願ったが、同じ空間にいるのが苦しかった。息苦しくなり、鏑木は一人外へ出た。駅前の居酒屋へ入り立て続けに酒をあおった。酒の味はしなかった。やけるような液体が自分の体に流れこんでくるような気がした。この得体のしれない液体が駄目な父親であり夫である自分を壊してくれればいいと思った。
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