雨の涯(はて) (菊 池  明)

 
 雨の涯 (はて)
 
犯罪者をもってしまった家族の葛藤を父親の立場、本人の立場からみつめた小説です。
 
日常生活でなぜとあなたに問いかけ、共に考えてくれることを求めた主題は重たいが、 その先にはあなたはなにかを見出すに違いない。
 
菊池 明
 
≪0≫ ≪1≫ ≪2≫ ≪3≫
≪4≫ ≪5≫ ≪6≫ ≪7≫
 

≪4≫

  月日は瞬く間に流れていった。健一は新聞配達を続けその販売所ではベテランの位置をしめていた。いくつかの配達地域を担当し、配達員に病気などで事故があった時などは代わりの配達員として新聞を配ることもあった。今では日曜日や祭日などは夕刊は休刊日であるが、販売所のおやじさんがいつかこんなことをいっていた。
「俺が新聞配達をしていた頃は、正月二日の朝の配達しか休みがなかった。だから元旦の夜は夜更かしができると思い、火燵などにはいり漫画本などを読みながら楽しもうと思うんだが、かなしいかな自然と眠くなっていくんだ。二日の朝も同じように目がさめてしまう。体は正直なもんだ。あのころと比べたらお前たちはめぐまれているなあ」
  と話すおやじさんはもう年齢は六十代半ばくらいだろう。小柄な人物で、彼で配達所も三代目だといっていた。子どもがいないので、冗談まじりに健一に俺のあとこの販売所経営を替わってやってみないかと尋ねたことがあった。「わかりません」と素っ気なく返事をした。その冷淡な態度とは違い内心はうれしかった。自分が認められたうれしさであった。おやじさんが少し淋しそうな顔で、まあ考えておいてくれよなと、健一の肩をたたきながら言った。
  二十三歳になっていった。この年齢は多くの学友たちが大学を卒業して新たな道を求めていく。あの事件以来健一のもとを訪ねてくる友人たちはほとんどいなかったが、中学時代一緒につるんでいた坂上から毎年、年賀状だけは届いていた。だが返事は出さなかった。あの頃のものと一切接触をもちたくはなかった。何もない自分を見られるのがはずかしかったのと、同情される哀れみの対象にはなりたくなかった。けれど、たよりをくれる坂上の気持ちは嬉しかった。いつの日か、自分から坂上に会いにいける時がくるかもしれないし、会えないかもしれないが、自分のことを思っていてくれる友の存在はありがたいと思った。夕刊の配達がおわり家に戻ると、母親が坂上の訪問を告げた。唐突な訪問に健一は驚いた。健一の部屋で待っているという。懐かしさと今の自分が置かれている状況を披露するには恥ずかしさがあった。ドアをあけると健一の机の前にあぐらをかいて新聞に目を通している彼がいた。中学生時代の面影は消えていて、町で通りすがりに出逢ったらわからないですれ違ってしまうかと思えるほど彼は変化していた。健一の姿を見るとほほえみながら正座に座り直した。メガネの奥から健一に向けられた眼差しがあの中学生時代の坂上だったことを思い出させてくれた。母親がだしたのだろう、コーヒカップとビスケットが数枚皿にのせられておいてあった。コーヒーの方はほとんど飲み干していた。坂上は新聞を折りたたんで脇においた。互いに笑顔でこれまでの中学卒業以来の事柄を語り合った。健一の事件のことについてはほとんど触れることはなかった。坂上が大学を卒業して、まもなく商事会社に勤務することになっていることを知った。あの坂上が大学に進学し、しかも一部上場をしている企業に勤める。健一は、すごいなと言葉で発し、笑顔で友の進路を祝った。坂上が 「お前のことを心配していた、もっと早く会いに来たかったが、自分にも家族に病人をかかえなかなか気持ちの余裕がなかった。だが、寝たきりの父親がなくなり、勤務先も大阪なので残されたおふくろとふたり、母親の実家のある彼地にいくことになる。お前に会うのは俺は構わないけれど、お前の気持ちがどうだがわからないので、この大阪行きを手紙に書こうと思っていたのだが、会って直接伝えなければならない事実が生じたので訪ねてきた。
  父親の葬式が一月ほど前にあり、近隣の人たちも幾人かが焼香にきてくれた。その中に小松の母親もみえた。小松の家と俺の家は同じ町でよく知っているんだ。おばさんが俺とお前の関係を思い出したのだろう。もしお前に会う時があったら、伝えてほしいと三日前、家に母親を訪ねてきてある事実を話したんだ。帰宅した俺におふくろが頼まれたことを話したのだが、かなり重い話なので直接お前に話そうと思った。小松の母親が言うには、何年も前に小松の自宅へ若い男たち数名と、身なりのきちんとした五十歳くらいの男が突然おとずれ、なくなった小松の位牌に線香をあげさせてくれということだった。彼らは丁寧に位牌を拝み立ち去った。その時、これを小松君のためにといって厚い風呂敷包をおいていった、風呂敷に包まれていたそれは厚く、おばさんは何か本でも入っているのだろうと、その包をあけてみたら、五百万円の現金が入っていたということだった。若い男たちが、小松の飾られてあった写真に向かい、申しわけない、赦してくださいと、口々に言ったらしいんだ。またあまりにも金額が多いので固辞したらしいのだが、何も聞かないでお母さんのためにお使いくださいといって、無理やりにおいていったということらしいんだ。その後数年が経つけどあの男たちは一度もこないそうだ。連絡先を訊ねてみたらしいが、名乗るものではありませんと言って帰ったらしい。お金はしばらく仏壇に供えていたらしいのだが、不安になり銀行へ預けておいたらしい。そのお金の一部は小松の供養料としてお寺に寄付し、残りは生活費として使わさせてもらおうと言っていた。俺のおふくろもそうしていいんじゃないと話しておいたと言っていた。はじめて第三者に封印していたことを話して、小松の母親も肩の荷がおりたような表情になったといっていた。肝腎なことなんだが、おばさんがいっていたが、あの事件は健一が主犯として責任をとったけど、何か違うのかもしれないと思うようになったというんだ。でも自分では確信がもてないので、そのことだけを俺から伝えて欲しいといってきたんだ。お前が帰ってくる前に、おばさんとおじさんと少し話をした時に、小松の母親のそのことを話した。お二人とも怪訝そうな顔をされていたが、一瞬目に明るさがともったように見えた。真実は違うところにあるのではないかと思う。健一、もう一度、調査をしてもらったらどうなのだろうか。お前の潔白を証明できるのではないだろうか。よく考えてみろ」
  自分がいろいろと屈折した人生を歩いている時、友の一人が大きく夢に向かって羽ばたいている。この落差に大きく気持ちが萎えていくのを健一は感じた。なにか体中から力が抜けていくようであった。中学生時代、共に問題のある生徒であったけれど、彼は明るく輝き、自分は日の目をみない雑草だと思った。いつの日か、陽のあたらない自分は枯れていくのだろうかと自分の生き末を考えた。
  再調査を依頼する気持ちはなかった。両親がそのようなことを仄めかすかもしれないが、戸腰との約束でもあり、自分はもうけじめをつけたのだと思った。むしろ戸腰が約束をきちんと守り実践してくれていたことに深い畏怖を感じた。あの人の生きている社会は知らないが、信用のおける人だったのだと思った。亡くなった岡田教官や保護司の品川と比べても彼らと遜色のない人間的魅力のある人だと思った。
  今、新聞配達をしている自分の姿がなにか一人置き去りにされていくような虚しさの中で、一人の信頼にあたる人物がいたということを知ったのは救いであった。だが、現実の姿は健一にみじめさをもたらした。新聞配達という仕事に就いている自分は坂上と比べたら、まわりの人々はどうみるだろうか、俺は今の仕事を決して見下してはいない。自分の性格にあっていると思うが、何か今の自分には欠けているものがある。それは何であるのだろうと思った。しばしの時を経て健一は、坂上の生きていく社会と自分の生きていく社会とは、異質なものになってしまったのだと思った。だったらその違いに悩むより、この自分が生きている今の自分の社会をいかに生きるかを考えればよいのではないかと思う。今の仕事、新聞配達をきちんとする、それが自分を鼓舞することではないかと思った。
  新聞配達所で知り合った健一と同世代の的場とは気が合い、時間をあましては二人で映画などや軽い食事などをしていた。的場の天真爛漫な性格が健一にとって肩の張らない付き合いができた。的場は高校卒業ということだったが、話すはしばしにそれとは違う人生をかかえているような思いがしていた。健一は無論そのことをたださないし、的場も健一の過去を穿鑿するということはなく、互いにそれぞれの過去についてたずねないという暗黙の約束があるようであった。的場と話をしているときは気持ちがほぐれるけれど、ふと一人になるとこのままではと自分の進路に対して迷う健一であった。この新聞配達を通じて、よその人たちのやさしさをかなり体で感じた。ある家では、春と秋にはきまってぼたもちとおはぎを玄関先に用意して待ってくれている老夫婦がいた。 笑顔ですすめてくれるそのもてなしは嬉しかった。揚げ物商売の店では、その主人が毎日のように、揚げたてのコロッケをくれた。できたてのコロッケは旨かった。夏に食べても旨いが、冬場食べるコロッケは体中を温めてくれた。さすがに毎日だと健一も遠慮をしたかった。でもその気持ちを表せない健一にかわって店の奥さんが、
「どんな旨いものでは、毎日は閉口するよ、あんただって、私みたいな美人の奥さんの顔を毎日みていたら、あきるだろう、それとおなじ。毎日は健一君に迷惑だよ、そうだよね」
  笑顔で健一をみつめた。健一は苦笑いし、頭をさげ次の配達に向かった。そのような人々とのふれあいができていた。あの人たちとあえなくなると思うと一抹のさびしさを感じた。大黒屋という家族三人できりもりしている小さな和菓子の店があった。集金に伺い客がいない時、店員をしているその店の娘がよく大福や饅頭を食べませんか、とショーケースの中から薄紙にくるんでくれる時があった。軽く会釈をかえし食べた。大納言をつかったというあんこの甘さが口中にひろがった。健一の笑顔にその娘も微笑んで健一をみつめた。妹の伸子と同じか一つくらい下かもしれない。健一の若さで新聞配達というと、苦学生のイメージがあるのかもしれなかった。その娘は健一のことを大学生という風に考えているに違いないと思った。もしそう思っているとしたら何か健一は彼女を騙しているのではないかと思うような時があった。ある日思い切って、
「自分は学生ではないんです、ある事情があって今は新聞配達をしていますが、自分がやりたいことを探している真最中なんです」
  饅頭を食べたあとに急に堅くなった表情で話しかけてきた健一の態度に、娘の表情には一瞬の戸惑いがあったけれど、
「亡くなった兄が高校生時代、新聞配達をしていました。この店も兄があとをついでくれると、父も母も期待をしていたのですけれど、七年ほど前、病気でなくなりました。だから私が高校卒業いらい家業を手伝っているんです。あなたをみていると、兄を思い出してつい声をかけてしまうんです。迷惑だったらごめんなさい」
  微笑みをうかべていた。健一の立場を穿鑿する気配はみられなかった。なにか肩のちからがぬけていくようだった。自分をかくさずにだしてよかったと安堵感で自分の表情がやさしくなったようにおもった。その娘の瞳がきれいに輝いていると思った。
「そうですか、それは大変でしたね。でもいつもありがとう。疲れた体にはとても栄養満点です。そして美味しいし、時々楽しみにしている自分がいるんですよ」
  娘ははにかんだような笑顔で健一を見つめた。
  あの娘ともやめたらあえなくなるかもしれないが、新聞配達をやめたとしても今度、和菓子を買いにいけばいいのだと思った。その娘のことを考えると甘美な想いがただよった。知り合って二年ほどだけど、その娘の存在が健一の心の中で大きな位置を占めていた。今度、思い切って映画にでも誘ってみようと思った。そう思うことで名前もしらない娘の存在が近くなった気がした。
  保護観察が終了したその日、保護司の品川がなにか相談があったら遠慮せずにたずねてきてほしい、と声をかけてくれていた、健一はその品川に世話になろうと思った。健一ひとりでは求職に自信がなかったのと、この数年の自分なりの努力を品川に知って貰い、ほめてもらいたかった。そのことばかけを期待し、迷っている自分を奮い立たせたかった。 
  数日後、日曜日の午後に品川の家を訪ねた。数年ぶりに会う品川は以前とかわらぬ優しい応対をしてくれた。健一が新聞配達の仕事をはじめてからもう四年近くになることをつげると、品川は大きくうなずき健一の努力を称賛し、訪問を心から喜んでくれていた。
  健一は今の仕事に不満はないけれど、仕事を変えたいと思うようになったと語った。自分は高校も卒業していないので手になにか技術をもち、できるならば一人立ちできる仕事につきたいと、品川に話した。彼は満面の笑みを浮かべて大きくうなずくと、少し時間を欲しいと言った。 
  二月末、健一は品川の奔走によって、従業員が百人ほどの印刷会社に就職が決定した。この業界で百人という従業員数は中堅規模の会社であり、健一は多色刷り印刷の機械を操作する部署に配置された。朝は九時から午後五時という拘束される勤務時間の長さに当初とまどいを覚えたけれど、新聞配達の朝の早い時間から比べると、仕事をおえた夜に自分の時間がかなりもてるような気がした。一台の機械を三人でチームをつくり操作する。洋紙会社から運ばれてくる印刷用紙は大きな巻きとり状になっていて、その重さは八百キロ近くになり、その着脱は特殊なフォークリフトを用いて行う。健一とそう年齢も離れていない若者が、そのフォークを手際よく操作し用紙の着脱をする。それを見て、自分はこんなことが出来るようになるのだろうかと不安がよぎった。一時間に一万枚を印刷するという機械は大きな音をたてながらすさまじい速さで、広告のチラシをつくりだしていった。息をぬくことはほとんどできず、昼休みには食堂でつかれた体を休めた。健一は見習いであったので、最初のひと月ほどは自分が何をしているのかまったくわからなかったけれど、四カ月目にはいり、ようやく進行のどの部分を今しているのかわかるようになってきた。他の部署の工員が食堂でも健一に声をかけてきたり、また、隣の席に座り共に昼食をとる仲間が出きつつあった。世間のことや会社のことなどを軽く話し合う仲間が日一日と増えつつあった。職場が楽しかった。手に技術をとおもっていたけれど、なかなか自分の考えが甘いと思った。大きな機械を見上げると、この操作を体得するにはかなりの年数を必要としていることがわかった。もうじき見習い期間がおえると正社員になれる。給料もあがり、ようやくなにか同世代と並べるかなと思うようになった。以前は街をあるいていても、足下をみつめながら前かがみに歩くようになってしまっていた。どこか自分を知られたくないという思いがつきまとっていた、が、この仕事ついて自らを卑下してしまうような気持ちがうすらいでいるようになってきたと思った。
  父も母も喜んでいるのがよくわかった。五月の母の誕生日には、春物のセーターを贈った。母はなにもいわず目に涙を浮かべた。少年院の面会室でみた涙とは違っていた。自分の部屋に戻ると、何故か自分も涙が溢れてきた。CDをかけた。ミレル・フレーニが歌うドヴォルザーク作曲のわが母の教え給いし歌を聴いた。癒してくれる曲であった。あの復讐に燃えていた刺々しい少年院時代、時折休憩時間に、この曲が院内全体に流れる時があった。この曲を聴くと幼いときに母親に安心して抱かれたような寛ぎを覚えたものであった。その音楽が流れているとき、そばにいた教官に曲目を訊いた。彼は音楽がすきなのかとたずねて来たが、健一は無言で頭をさげ一礼してその場を離れた。数日後、その教官が曲目を教えてくれた。いつか出院したらこの音楽のCDをほしいと思った。
  坂上が話していった事柄について、両親は何かいいたそうな顔をした時があったが、はっきりとした確証がつかめないので何も言い出せないようであった。ただ、もしかしたらという思いが両親の心をいくぶんか軽くしたのではないかと思った。戸腰の件を両親は知らない、もし知ったのならば警察に調査を再度するようにするに違いないと思った。もう蒸し返す気持ちは健一にはなかった。なにか自分のまわりから過去のことは忘却したいと願っていた。一時は復讐ばかりしか考えていなかった自分が、今、このように変化していくのは不思議に思えた。自分をかえたものはなんだったのか、そのようなことを考えながら繰り返し同じ曲を聴いていた。うっすらと涙が頬を流れた。
  輪転機が大きな音をたててうなり色鮮やかな広告チラシが次々と刷られていた。いつの間にか、品川と一度面接にきた時に会っただけの社長の木村が、めずらしく新人である自分のそばにきていた。
「慣れたか、がんばれよ」と健一の肩をたたいた。進行の責任者と打合せがあるのだろう、地下の印刷場から姿を消した。健一は社長の木村が手をおいた肩に目をおとした。予想もしない社長の励ましだった。面接の時には健一を受け入れることに苦渋のような表情を浮かべたように見えた。保護司である品川自身へのこれまでの信頼が、健一を雇う大きな決め手であったように思えた。採用がきまった時、自分は品川さんのためにもがんばろうと思った。
  班長の大場が健一の方をみて、Vサインをだした。にこやかな表情であった。健一もはにかみながら大場にこたえた。自分はあの四人を訴えなくてよかったとおもった。過去に拘泥していたら、今の自分はなかったと思った。過去は完全に捨てさっていったが、なにか早く幸せがきているようで不安であった。こんなに簡単に幸せがこないのに、と思いながらも健一の心は落ち着いていた。そのよろこびの反面、班長の大場の表情が気になった。自分の過去を知っているのはこの会社では、社長の木村しかいないはずであった。新人の自分が社長から声をかけられたということだけにしては、大場の喜び方は健一にとり異様にみえた。大場も自分の過去を知っていて、その自分が社長から励まされたのが上司として嬉しかったのではないかと疑う自分がいた。どこからともなく健一は自分の立場がいつか露見され、せっかくにもう一度やり直そうとしている自分を、なにかが暗い空間へおいやるのではないかと不安がよぎった。この小さなしあわせを手放したくないと思うと、いろいろな猜疑心がわいてきて、冷たい何かが背中に流れるように感じた。けれどそんなことは絶対にないと無理やり自らに言い聞かせた。
  健一がこの会社に見習いで働きだしてから、はじめての夏の納涼会が開かれた。会社の建物の屋上に俄かづくりのビアホールがつくられた。この準備はおもに営業の者たちが担当した。金曜日のこの日は、仕事は五時を目処に終わらすようになっていた。何人かの顧客も招待し、プロのハワイアンバンドも用意しての一夜であった。この数年来の会社全体の社員の慰安のための催しものであった。
  営業の課長が司会を担当し、最初に社長が短い挨拶をした。次に顧客を代表して数人の来賓挨拶があった。
  課長の大場がすっかり酔ったようすで、楽しい、楽しいと話しながらそばにいる健一にビールをコップについだ。酔った口調で大場が 「俺はこの会社が三つ目だけど、一番いい会社だ。給料も前の会社よりもいいし、社長がいい。俺はこの人のためならなんでもするよ」と意気軒昂にしゃべっていた。健一はひとつひとつに相槌をうちながら冷たいビールを呑み込んだ。
  司会が紹介する顧客の名前に聞いた覚えがあった。たしかに司会が、戸腰様といったようであった。そこだけ鮮やかに照らし出された舞台に、やはり長身の戸腰があがり、短く挨拶をした。何度も戸腰はこのような場にきているのだろう、酒がはいり酔いのまわった男子社員や女子社員から、歓声と拍手がおこった。戸腰のこの会社における立場が重いことをしった。健一は戸惑った。戸腰と会社の関係は密接な関係であるようであり、この会社を紹介してくれたのは保護司の品川だった。品川と戸腰が接点があるとは思えなかった。健一にとり面妖な戸腰の出現であった。
  戸腰が舞台をおりると、ハワイアンバンドの演奏がはじまり、人々はおもいおもいにビールをのんだり、寿司をつまんだりしていた。大場が酔いの回った呂律で、健一のコップにビールをついだり、周りの同僚にも注いでまわっていた。普段工場では見られないほど大場はくつろいでいた。何か健一自身もその楽しさが伝わったのか気持ちが高揚していた。ハワイアンの軽快なリズムがより開放感を盛り上げていた。酩酊していた大場が急に真顔にもどり大仰に体をふたつ折りにするように頭をさげた。健一たちの脇を、社長と戸腰が連れ立って歩いていた。戸腰がほんの一瞬健一をみつめた。そして社長とともに階下へ姿をけした。
  いつのまにか舞台には、ハワイアンのダンスがはじまった。三人の若い女たちが腰をふりながら音楽にあわして踊っていた。腰をくねりながらゆらすたびに、歓声が起こっていた。健一もその舞台に見入っていた。口もとには自然とほほえみがあった。楽しかった。
  随分と時間がたってしまったが、大黒屋に近いうちに行って見ようと思った。自分のしていることをあの娘に伝えたいと強く思うようになっていた。彼女の笑顔を健一はほしかった。お酒のせいもあるかもしれないが、健一は気分が昂っていた、将来に向かって大きく踏み出していける気がした。この高揚感は明るく和やかな場からもたらされる空気を吸っているせいだと思った。舞台でフラダンスを踊っている一人のダンサーが大黒屋のあの娘に目もとが似ていると思った。ダンサーとあの娘が二重写しになった、この小さな幸せを守りたいと心から願った。
  そんな健一を舞台のそでから若い営業部員の男がじっとみつめていた。
  数日後、健一はなにか自分をみる大場の表情に変化があるのがみえた。いままでとはちがい、大場が自分の目をみて話すことがなくなった。ときおり冗談をいい、飲みにいこうという言葉かけもなくなった。あきらかに健一の過去をしったのではないかと思った。
  どこからもれたのか健一は見当がまったくつかなかった。以前は食堂にいっても、他の部署の何人かが健一の隣にすわり話しかけることがあったが、最近はまったくなくなった。何か健一を避けているような雰囲気が職場全体にひろがっていった。
  健一は一人食堂で昼ごはんをすまし、午後からの仕事についた。大場をはじめ、ようやく慣れたと思った職場が、無味乾燥な一つの大きなコンクリートの箱にしかみえなくなってきた。刷られていくきれいな印刷物を前は感動的にみていたが、そのような意識は日を経るにしたがい湧いてこなくなった。

  出院以来帰ってきてもあまり話すことをしなくなっていた健一だったけど、新聞配達をし、保護司の品川とその立場上とはまた違う人間関係の絆が生まれ、今の印刷会社に勤め、この前の納涼パーテイは楽しかったと明るく話した健一であったのに、この数日、健一の寡黙さがましている。そのような健一の状態を恵美子は心配していた。食事をするとき以外は、ほとんど自室に閉じこもることが多くなった。健一に何かあったのかと、問うのが不安であった。母親として問わねばならないという思いはあるのだが、恵美子にとって健一の応えを受け止めてやることができないのではないか、だとしたら何もすることができないと思った。自分の不安が事実であった時、それを理解し息子を包みこむ心のゆとりがないとおもった。こんな時こそ父親が動いてほしいと思った。男同士で話し合いができるはずなのに、そのような仕草をみせることのない夫に不満がつのる一方であった。
  いつのまにか恵美子は自分が健一と向き合えない揺れ動く不安定な気持ちの責任を夫に向けていた。
  日が経つにしたがい、健一が仕事をやめるのではないかと案じはじめた。母親として健一が日々の生活のなかで夢を失い、刹那的な生き方になることを恐れてはじめた。過去にあの事件があり、品川の尽力で今の職を得て息子の表情にも、家の中で無口であっても明るいまなざしがみられていた。ささやかであるけれど、このままの状況が続いていて欲しいと願っていた。それがもろくもくずれて、過去のような日々悶々とした気持ちで過ごすのはしたくないと思った。息子を受け止め母親として精一杯努力してきたつもりであった。辛抱がたりない息子に対していいしれぬ嫌悪感がはしり、その感情を抑える空しさを覚えていた。でもどこかで、そのように考えるのは自分の思い過ごしでしかなく、職場で息子は疲れているだけだと思う感情を信じようとした。そう自分自身を構えることで、心の不安がいくらかやすらぐのを感じた。
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